はじめまして
さきほどは後姿でご挨拶申し上げました無作法をお詫び申し上げるしだいでござります。
かくお詫び申し上げますのは、わたくしを五百年という歳月をへて蘇らせてくださいました狩野探幽さまのあたたかい御お心遣いに甘えさせていただいていたのでござります。
五百年という歳月がわたくしに齎してくれたものが老いなのでございます。
さきほど後姿のままご挨拶申し上げてしまったこと・・そこはなにとぞあわれな女心をご理解いただきますよう伏して御願い奉りまする。
そしてさらに五百年という歳月をへて、このようにしてみなさまとお会いさせていただけます喜びを改めてかみしめているわたくしなのでございます。
申し遅れましたが、わたくしのことをみなさま紫式部とお呼びくださいます。
本名ではないのですが、このように呼ばれることを気に入っているものであります。
さて・・・
わたくし二十六歳のみぎり、わずか三とせという短い蜜月で夫の宣孝殿が極楽浄土されてのち、おおくの殿方より申し出を受けていたのでございますが、あどけない娘の賢子がおりますれば
お申し出をうけがたく夜毎独り寝の日々を過ごしておりました。
夫亡き後五年の歳月が過ぎようとしていた寛弘二(1005)年の末のことでございました。
かねてより度重なるお招きを頂戴しておりました左大臣藤原道長さまの御愛娘彰子さまのもとへ宮仕えさせていただくこととなりました。
わたくし自身といたしましては、あまり宮仕えということに乗り気ではなかったのですが、わたくしの父である為時は職を失っており
弟の惟規も、ちゃんとした官職にはありつけていないというたいへんお恥ずかしい話でございました。
ましてや娘の賢子は、年が明ければようやく八歳という幼さで、かような家族のために止む無く宮仕えを、お受けさせていただいたしだいでございます。
当時、陽の上るがごとき勢いであらせられた左大臣さまなのですが、そのような道長さまにも御お心をいためていらしたご様子がおありのようでございました。
それは御愛娘の彰子さまが未だ解任の兆しがないことと、彰子さまの夫であらせられる一条天皇さまが、おきさき皇后定子さまとの間にもうけられた敦康親王さまの存在なのです。
もしも、このまま彰子さまから皇子がお生まれにならないと敦康親王さまが皇位を継承なさる可能性があるわけなのです。
父親として御愛娘の幸せを願うことは当然のことなのですが、その一方でなんとしても我が家から天皇の継承者をだし天皇として君臨してもらいたい、という思惑もおありだったと思います。
左大臣藤原道長さまのさまざまな諸行を拝見しておりますと、たとえば一条天皇さまの御関心を少しでも多く御愛娘彰子さまのもとへ引き寄せようと、皇后定子のもとにあったような魅力的な文化社交場をおつくりになられたいと、お考えになられて
美しい女性やご才気あふれる女性たちを次々と彰子さまのお近くに集めさせていらっしゃいました。
わたくしが書いておりました拙い物語『源氏物語』を一条天皇さまがご愛読なさっていらっさった、ということもあって、わたくしにも幾度となくお誘いのお声をかけられたのだと思います。
わたくしといたしましては、あまり乗り気ではなかったのですがわたくしごとの些細な事情もあったのでお断りできなく、そのお申し出をお受けさせていただいたのであります。
でも、本来あまり乗り気ではなかったので申し訳ないとは思いつつも三日で離れさせていただきました。
ところが道長さまは、そんなわたくしにいろいろとお力添えくださいまして・・・お恥ずかしい話なのですが長文となり始めた『源氏物語』を記すために必要な料紙・墨などをお助けくだされたり、
朝早くに道長さま御自ら女郎花を摘んでおはこびくだされたり、また父や弟の任官の面倒までをもみてくださっりとなされたので、わたくしはその暖かいお心にほだされて宮仕えを続けさせていただこうという気になりました。
当時のわたくしの心根につきましては『紫式部日記』に書き綴ってありますれば、そちらをお読みいただければと思います。
このようなわたくしが、現世そしてあの世から垣間見てきたことや思いにつきまして後代に記された『平家物語』を主軸として
平安時代という刻の流れを、みなさまにご紹介、お話させていただこうと思います。
これから暫くの間、長いお話になるかとは思いますが最後までお付き合いいただければと思いますので、よろしくお願い申し上げます。
うっかりしておりました狩野探幽さまのことを簡単にご紹介させていただきます。
拝紫式部こと藤原香子

-紫式部墓-
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