武士


花山天皇の出家に際して兼家がはじめから加担していた様子が『大鏡』に記されています。
「さるべきおとなしき人々、何某・彼某といふ、いみじき源氏の武者たち」に花山と道兼の後ろをつけさせたといいます。
この源氏の武者は源満仲だといわれています。

■侍とは・・・
武士のことを侍と称するのは「摂関時代」に、武士は公家に「さぶらい」、その指示のままに行動する存在であったので「さぶらい」→「さぶらう」→「さむらい」となったとされています。
まさに源満仲のとった行動は不祥の事態のために待機しながら行動する・・という侍のイメージの原型が見受けられています。
満仲の息子の頼信は「町尻人(道兼のこと)の家人」だったので護衛を務めていた可能性は高い。
満仲自身はどちらかというと花山側だったので、花山出家の二ヵ月後の八月に花山のあとをおって出家しています。


一条と三条


こうしてなんとか一条さんが即位するのですが七歳でした。
摂政として兼家がつき蔵人頭には花山さんを出家させた功績をかわれて道兼がつき、長男の道隆がいきなり正二位権大納になります。
やがて正暦一(990)年、兼家は六十二歳で死去し、円融法王が翌年三十三歳で死去します。
のこったのは十二歳の一条と皇太子の三条(十六歳)です。
ここでまた権力闘争がおこります。
兼家の子供たち、道隆、道兼、道長、それと娘詮子らが王と皇太子をとりまいて争うのです。

■権力争い
兼家のあとを継いで関白となったのは長男の道隆(三十八歳)です。
道隆は当時十一歳であった一条天皇に四歳年上の長女(定子)を臥所の女御にいれます。
そして五年後の長徳一(995)年に次女の原子を皇太子三条のもとにいれます。
つまり父(兼家)と同じように冷泉系天応と円融系皇太子の両方に娘二人を配偶したことになります。
即位した一条天皇は妻の定子とともに華やかな宮廷文化や宮廷女房文化に固執し続けました。
この影響は後に道長の時代へと続く宮廷の平和への追想であったのかもしれません。
表面的に華やかで落ち着いていたように見えていた時代ではありましたが、原子が若くして死んだときに、毒殺されたという噂がたったり師輔の怨霊が徘徊したという記録も残されています。
正暦四年四月に道隆は急死し、関白の地位が弟(道兼)にまわってきたのですが、この道兼も疫病ですぐに死去してしまいました(七日関白といわれています)。
一条天皇は定子との関係にひかれ、一時は伊周を指名しようとしたのですが母の詮子が道長を強く推薦し結果道長にまわってきました。
伊周が「内覧」の地位にあったときに衣服の華美を規制する新しい制度を発布しようとしたことがあって、そのやり方が気に食わないと反発をかっていたようです。

■嫁姑
直接、この人事に影響していたと思われることは詮子が定子の周囲にある派手な雰囲気を嫌い嫁と姑の仲が良くなかったことが原因だと思われます。
様々な嫁姑争いの記録が残されていますが『藤原実資日記』をみると、詮子の家役人が定子の宮中に逃げ込んだ下総の国司からの贈り物を取り立てようとして乱闘事件が発生したというようなことがあります。
道隆の病状回復の祈願で石山詣に出かけた詮子の牛車に割り込んだ・・というようなこともありました。
あからさまな嫁姑戦争は、天皇制史上、最大の嫁姑問題とされています。

■道長台頭
末っ子の道長が最後に笑うことになるのですが、定子が皇を産んでいたら伊周が定子の兄として道長を追い落としていた可能性があったはずです。
伊周というのは道隆の子供です。
生来のんびりやさんであった伊周なのですが道長と伊周の家来どうしの間で乱闘・殺害事件が続いており、そんな時に長徳二(996)年正月に花山法王襲撃事件をひきおこした伊周は自滅していきます。
この頃の花山さんは出家していたにも関わらず自由奔放な遊興生活にもどっており、直接出家の原因となってしまった女御のヨシコの妹のもとへ通っていました。
ところが伊周もヨシコのもう一人の妹のところに通っており、法王に矢を射かけ法王の袖を射抜き、法王の童子を殺して首を持ち去ったということが記録されています(藤原実資日記)
また、詮子の寝殿の下から呪詛の人形が掘り出され、この呪詛の疑いが伊周にかけられ伊周は大宰権帥に左遷されてしまいます。
同じように太宰府に流された道真と自分とを一体化しようとしたのか、北野社に詣で、さらに雷神の座所(愛宕山)にこもって逃れようとするのですが捕まってしまいます。
同じ頃定子もまた出家においこまれています。

権勢の安泰をはかりたい道長は自分の長女(彰子=十二歳)を一条さんのもとへ入内させます。
ところが一条さんは未練というか出家して尼さんとなっている定子を手放さなかった上に長保一(999)年に男子(敦康親王)を産みます。
さらに、愛情が深かったというか、好き物というか(^^;定子さんはすぐに妊娠するのですが、翌年死んでしまいます。
一条さんの道長に対するせめてもの抵抗だったのかもしれません。
定子が出産し彰子が入内した長保一年には一条さんは二十歳でした。
定子の死後、産まれていた敦康親王は彰子がひきとって養育していたのですが、二年ごには母(詮子)も死去してしまいます。
定子を忘れられないままに一条さんは政務に励み「好文の賢皇」と評されるまでになりました。
なかなか子供が産まれなかった彰子さんなのですが、寛弘五(1008)年に漸く男子が産まれ(後一条)、ここにきてやっと一条・彰子・道長の関係が落ち着きました。
いままで可愛がっていた敦康親王より実の子のほうを可愛がりだし、将来は皇太子にすえたいと考えていました。
※ちょうどこの頃『源氏物語』が書かれており、「紫の上」的な存在の彰子と幼親王(敦康)を中心とした後宮の雰囲気が感じられます。
敦康を保護しようとした彰子周辺のある意味宮廷的な善意を描いているのですが、筆者である紫式部が彰子のサロンにおいてもっとも有能な女御であったことを忘れてはなりません。

この『源氏物語』のなかで光源氏のモデルではないかと云われている在原業平さんがいて、この人もいろいろな問題をおこしてくれています。
道隆の奥さん(高階貴子=伊周・定子らの母)は高階氏の嫡流の出身なのです。
この高階氏というのは在原業平が伊勢斎宮の恬子(やすこ)内親王と密通して設けた高階師尚を祖先とする氏族なのです。
だから、この高階一族と子孫は「参宮」を拒否される立場にあったのです。
当時、敦康親王の別当を務めていた藤原行成自身が敦康の立太子問題について「皇后宮(定子のこと)の外戚は高階の先」であり、高階氏の流れは「斎宮事」によって伊勢神宮にたいして問題があるから王位には適さない、という議論を一条さんに奏上しています(藤原行成日記)
自分の主人である敦康をけなすような行成の奏上は二枚舌というか、本音とたてまえを使い分けているというか・・いずれにしても『源氏物語』では、このような「たてまえ論」を強く反発し、宮廷社会内部の意識改革を意図としていたのかもしれません。

清少納言:「まぁ、紫ちゃん、今日もそのようなモノを召し上がっていらっしゃるのね」
紫式部:「こんにちは。あらっ、また覗き見なさったのね(怒)はしたない方ね。」
清少納言:「覗き見したわけではありませんことよ!!このように宮廷内に煙が流れては他の方々もみなさん迷惑なさるからわらわが忠告申し上げようと思ったまでのこと」
紫式部:「大きなお世話よ!!」
清少納言:「ところで、その真っ黒いモノはなんですの?ワタクシども高貴な生まれのものには馴染みが無いシロモノなのですが」
紫式部:「まぁ、それはお可愛そうに。このように美味なるものをご存知ないとは。これはイワシという珍味ですわよ」

・・・と、まぁこのような会話があったかどうかは別として、二人の仲が犬猿の仲であったことはみなさん周知のとおりですが、紫式部が清少納言を嫌っていた理由の一つとして、清少納言が定子さんに対して忠義面しながら、この行成と親しく(おそらく愛人)していたことにもあります。
嫉妬心であったとしても互いをライバル視することで競い合い後世に残る名作を記したことは結果オーライなのかもしれません。


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